死ぬまでにもう一度訪ねたいカフェ

  • ヨルダンの南のほうにペトラと呼ばれる遺跡がある。いまここに魔法の絨毯があって、お茶でもいかがですか、ご主人さま、というならば、迷わずペトラでお茶しよう、というに違いない。
  • ヨルダンの首都アンマンから南端のアカバまでを南北に貫く国道沿い*1を、死海を西に見て、しばらく南下し、東にそれた場所にペトラがある。国道沿いは延々と礫砂漠が広がっているのみだが、ペトラ付近は巨大な岩山がダイナミックに連なっている。
  • ペトラ遺跡の入口は、垂直に切り立つ絶壁に挟まれたごく細い通路である。通路というよりは、非常に大きな岩盤のなかにこっそり穿たれた亀裂をくねくね辿るような感じだ。横の見通しがまったく効かない中を、ラクダとともに空を見上げながら20分程歩くと、絶壁は唐突に開け、正面の絶壁に彫りこまれた高さ40mの巨大な神殿に遭遇するという仕掛けである。まるでファンタジーの世界だ。
  • ペトラ遺跡は、遺跡の造作が優れているだけでなく、ピンクやオレンジがかった岩肌が日の光の色によって雰囲気を変える様子や、白い絵の具を流したような斑紋が美しい。あっちの神殿、こっちの岩山、と歩きまわるのは、遺跡見学というよりはトレッキングに近い。そんな中の一つの山の中腹に、ぽっかりと半球上の空洞が空き、そこでひっそりとカフェが営まれている。
  • 店主は白髪に白鬚をたくわえたベドウィンの爺さん。アラファト議長のように赤いチェックの布を頭に巻き、黒いバンドを嵌めている。ベドウィン男の風貌は、じっと客が来るのを待っているだけなのだろうが、なぜか険しく、いちいち孤高で思慮深げに見える。店の設備と言えば、小さな椅子数脚と小さなかまどのみであり、せりでた岩盤が屋根代わりだ。
  • 爺さんは客が来るたびに、かまどで火をおこし、小さな鍋で紅茶を煮出し、ザラメといっしょに小さな器に渋い紅茶をいれくれる。爺さんは笑顔一つ見せず、孤高の表情を保ったままだが、日陰が涼しく、向かいに見える神殿を借景に、この粗末なカフェで飲む渋い紅茶は、トレッキングで疲れた体をとても癒してくれる。
  • 世界には、酒を飲まない人たちや、大麻を吸わない人たちや、肉を食べない人たちは多いし、習慣や思想は文化や宗教に応じて]多様だけれど、お茶を供する心は世界で共有される数少ない客に対する心使いのように思う。それは、フランスのカプチーノも、イタリアのエスプレッソも、インドのチャイも、中国のジャスミンティーも、アメリカのドリップも、日本の煎茶も、ペトラで沸かした紅茶も、根本的に同じだと思うわけです。ファミレスのドリンクバーとかは、安いけれど、心づかいとしては最低です。
  • イスラムの人たちというのは、日本人とは文化的バックグラウンドがあまりに違うという事情もあって、主に感情や習慣の面で、直線的な共感を持つに至らないことが多いように思うのだけれど、このペトラのミニマルながらも豪華なカフェは、サービスにおいて僕が求める理想のカフェでした。
  • ペトラに行くには、モスクワやドバイで飛行機を乗り継ぎ、アンマンに入り、そこから車で一日がかり。気軽に行ける場所ではありません。僕が魔法の絨毯に乗ってペトラのカフェに行きたいと思うのは、そういう理由からです。

(id:nelboneさんのhttp://d.hatena.ne.jp/nelbone/20070319に影響を受けて書きました。トビハネのマンゴーツリーレストラン - トビハネインディアンの飛び道具シリーズ第二弾でもあります。)

*1:この国道から東に向かうとイラクに着く。ボランティアの人たちがイラクに向かうのはおおむねこのルートらしく、テレビでもよくその分岐点が放映されていた。